新しい発見。
近頃、年賀状用に絵はがきを何枚か買ったりしている。その中で気になっていた、明治の頃の京都の絵はがき。博覧会についてのものが多い。なぜだ?
という事で気になったので調べてみた。
そうか。
とても大きな変化の需要と、それを受け止めたのがこの博覧会だったんだ。
そう考えてみれば。
電力も、
市電も、
時代祭も、
都をどりも、
平安神宮も、
岡崎のあの一帯すべても、
天皇がいなくなって寂しい気持ちも、
全部を何とかできるって信じた京都の人の気持がこのイベントに集約されていたのかもしれない。
やはり遷都は、この地の人々にとって大きな喪失感を伴った体験だったんだ。やはり。
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と、思ったらどうやらこれでは無かったようだ(笑) なんだそりゃ。
絵はがきになっているのは多くがその後の大典記念京都博覧会(大正4年)か、万博参加50年記念博覧会(大正13年)、大礼記念京都大博覧会(昭和3年)あたりが多いみたい。
なんだ、結構この頃って博覧会頻繁にやってんな(笑) 調べていると、この頃って全国各地で毎年無数の博覧会が開催されてて、珍しくもないレベルのよう。
それで思い出すのはバブル期の地方博覧会ブームだ。そうか。そういえばこの頃も世界恐慌前のバブル期だった。景気が博覧会を左右するのはつまり、いつの時代も変わらない、と。
その辺はここに詳しい。
これは大正13年。今の岡崎の鳥居そばの橋のところ。感慨深い。
慶流橋(琵琶湖疏水 岡崎): 琵琶湖疏水:世界遺産を目指す疏水を散歩する
こっちは昭和3年。第2本部という事なので、二条城北側のあたりか。
岡崎、そこはイベントエリアだった、という今日の結論。今もみやこめっせも京都会館もあるし、つまりはそういう事だってことね。