『長江』映画レビュー&完全ガイド | 35億も納得。さだまさしによる奇跡の記録映画(1981)

豆瓣:长江

長江 - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ | Filmarks映画

 

「歌手・さだまさしが35億円の借金を作った映画」だけで終わらせるには、あまりにも惜しい。1980年、改革開放が始まったばかりの中国を35mmフィルムで大規模に撮影した奇跡の贅沢さ。45年後の今こそ、その驚くべき映像の価値を再発見する。ぜひ4Kリマスターを、日本にもう一度『長江』を。

 

長江

【スタッフ & キャスト】

1981年 日本 148分 豆瓣評価:9.5/10
監督:さだまさし
出演:さだまさし

 

【あらすじ】

人気歌手さだまさしが祖父、父母が青春時代を送った中国を訪ね、長江の流れに沿って通り過ぎる街と人々と、その歴史を追うドキュメンタリー。

映画.comより

 

 

【感想】

35億円の借金という伝説

この『長江』という映画の名前を聞いた事がある人はいるだろうか。中国に興味があるならどこかで聞くかもしれない。そうでなければ、歌手・さだまさしの面白エピソードとして、35億円の借金の伝説と共に聞くタイトルだろう。
でも、実際に映画まで観た事がある人は多くないんじゃないか。現在では配信もなければDVDレンタルも無く、もはや正規では見る事自体が難しい。
だが、実はYouTubeには全編が上がっていて、これがかなりの再生回数を記録している。そして、観た人は結構高く評価しているようなのだ。

だが私も何度か観ているが、最初はなんだか魅力を理解できなかった。なにせひと言でまとめるなら「さだまさしの旅の記録」でしかなくて、正直万人にお勧めとまでは言えない。映画そのものも様々な要素が混ざり込んでいるのに、あんまり説明しない。だから、頭で整理できないまま見てしまうと、ついつい漫然と見てしまいがちになる。
しかし改めて観てみると、この映画、実はかなり面白い上、なによりも今や大変に貴重な資料になっている事が見えてきた。これは今こそ改めて見る価値のある、とても大事な作品だ。

 

あふれる行動力と超高精細な映像

とりあえず漫然と見たとしても、さだ氏がガンガン人に触れ合っていくスタイルは、旅番組としても相当アグレッシブで面白い。どこでも1人で気兼ねなく入っていく。中国語も全然話せないのに、成都の市場の屋台みたいな店で食べ物を買う。漁をしてる村人に話しかける。ドラゴンボートに参加する。どこでも周りは大群衆だ。
そう、時代は1980年。まだ外国人自体がすごく珍しかった頃だから、意味合いが全然違う。後にバックパッカーのバイブルとなる『深夜特急』も出ていない時代だが、まさにそんなノリでガンガン人と触れ合う。

驚くのが映像だ。もう驚異的に美しい。35mmフィルム撮影なので、もうそのまんま映画クオリティの高精細画像。なにせ映しているのは中国だ。この時期にこんな贅沢な画質で、各都市をこまめに記録している。そんな良質な映像素材自体、中国にもほとんど存在しないんじゃないか。とにかく、あまりの美しさに「なぜ?」と疑問が湧くレベルで、良い。

 

奇跡的な撮影タイミング

冷静に考えると、この映画の撮影時期ってすごいタイミングじゃないか?と思えてくる。映画は1981年公開だ。撮影は1980年8月から。
これはつまり、文化大革命の時代が終わってまだわずか4年という事だ。中国はまだまだ文革期から抜け出したところで、正にこれから改革開放が加速し発展が始まっていく、その入口のタイミングだった筈だ。

それに、第二次大戦=日中戦争からもまだ35年。まだまだ当時の兵隊だった人すら存命だった時期で、生々しい証言者や遺跡が存在していた。

もう一つ、この『長江』が貴重なのはこの後、あの三峡ダムが作られるからだ。あの長江をせき止める壮大な、と同時に多くの村や風景を沈めた、あの三峡ダムがまだ着工すらしていない1980年。後に映画『長江哀歌(2006)』にも描かれる、失われた風景がまだ現役だった時代を鮮やかな高画質で捉えているのだ。どれもこれも、なんと貴重なタイミング。

ちなみに、少し前に中国在住の竹内亮監督による『劇場版 再会長江(2024)』がある。こちらは10年後に長江を再訪し、当時の人々に再会する。そして再度源流への到達を目指した作品だ。1980年の『長江』も意識しつつ、対照的な視点を持つ作りになっている。

 

「一人旅」に感じ始める違和感

そんな、今となっては貴重な、でもとてつもなく素朴な環境をさだ氏は旅する。この頃28歳位ながら既に大ヒット歌手だったのに、街を巡り、村を歩き、山まで登ったりもする。途中からは通訳も帰ってしまい「一人旅」になっても、それでもどんどん行動して、笑ってしまうほどだ。

しかし、観てる側の違和感も少しずつ増していく。なにせ映像が豪華。ただ綺麗なだけじゃない。新たな都市ごとに空撮が入る。雰囲気以上に大所帯で撮影してるのが匂ってくる。確かに、映画用のカメラなら普通に撮っても2, 3人では済まない。人の多い重慶の市場シーンなんか、地元の人々に照明も当たり、カメラを大きく避けるから大人数がカメラの背後にいる事が伝わってくる。
劇中では20を超える都市に訪問し、それぞれに名所を訪れ、インタビューを撮る。景徳鎮では焼き物の工程を見学し、重慶の炭鉱では炭鉱夫にインタビューする。こんなの、現代でもコーディネーターが必須だが、この映画は文革終了直後の中国だ。
こんな綿密な準備がされた「一人旅」。いったいどこまでがリアルで、どこまでが演出なんだろう。

そんな事を思いながらエンドクレジットまで来て横転した。
なんだこれは。
市川崑、原一男、服部克久、宮口精二…… 撮影は複数班、CCTV、上海電視台、各地の外事部門まで並ぶ。とんでもなく豪華な陣容じゃないか。
この上に35mmフィルム撮影、空撮もやり、100万フィート以上のフィルムを費やして…
思わず「どこが一人旅やねん」という言葉が出た。

 

今、この映画を見なければならない理由

もう一度、この映画を見てみてほしい。ちょっと整理してから見てみると、実は画面の中はお宝だらけなのだ。ダムに沈む三峡、重慶の街の雰囲気、宜昌での生きている戦争の記憶。調べれば調べるほど、驚くようなものが映像に残されている。
これは単なる旅映画じゃない。1980年の中国を大規模に保存してしまった映画だ。公開当時よりも、むしろ今の方がこの映画を見る価値がある。

なのに、今まともに見ることもできないのは大変もったいない。だから、まずは正規に見られるようにしてほしい。そしてせっかく35mmで撮ったのだから、ぜひ4Kリマスターで蘇らせてほしい。100万フィート以上撮ったという未使用フィルムが残っているなら、それも見てみたい。

そして、もう一つ残してほしいものがある。人の記憶だ。当時を知る映画の関係者の証言を聞かせてほしい。なぜこんな無茶ができたのか、ぜひ聞いてみたい。今ならば、まだ聞くことができる。聞くべき人が生きている。 映画が宜昌で戦争の生存者から話を聞いたように、我々もまさに生存者から話を聞ける最後のチャンスにいるのだ。公開から45年。もうこの映画自体が歴史になった。ならば今度は私たちが話を聞く番じゃないか。

その為にも、まずは一度この映画を見てみてほしいのだ。

 

 

 

 

【本編映像】

▶ 本編(クリックで開きます)


www.youtube.com 纪录片《长江》.(Yangtze).1981.佐田雅志

 

 

【訪問都市ガイド】

映画は、長江を遡るように都市を訪れていく。それぞれの都市によって街の成り立ち、キーとなるトピックが変わるので、気になる都市から見ていく方が楽しめる方もいるだろう。
※各都市は【1980年の風景】、【三国志】、【詩・文学】、【古代】、【日中戦争】、【文化大革命】、【名勝・旅行】のトピックで分類している。
※タイムコードは本編に登場するおおよその時間。

 

①上海 02:25 【1980年の風景】
  • 現在の上海とは大きく違う、改革開放初期の風景
  • 往時のトロリーバスや第十百貨商店、教会(恐らく徐家匯聖イグナチオ大聖堂)に集う人々を撮影
  • 書家・蘇局仙を訪問し、題字を書いてもらう
  • 河口付近で、船上で生活している人々にインタビューする。
  • 空撮で河口の風景を捉える

 

◯ デパート・第十百貨商店の外観が捉えられている。
もともとは戦前上海を代表した高級百貨店・永安公司。1949年の政権交代とその後の文革を通じて「国営上海市第十百貨商店」へ名称が変遷していく。1987年の大規模改装を経て2005年には戦前の永安公司の名称が復活し今に至っている。

◯ 教会・徐家匯聖イグナチオ大聖堂のシーンは、撮影のタイミングがものすごい。
1910年に完成した上海を代表するカトリック教会。赤煉瓦造りのゴシック様式で、正面に二本の巨大な尖塔を持つ。
しかし文化大革命が始まった1966年、宗教活動は禁止、尖塔や十字架が撤去され、ステンドグラスやパイプオルガンなども破壊された。ここでの1980年頃の姿を見ると、まだ復旧作業途中。ちょうどこの頃から宗教活動も再開し、1982年になって尖塔が復元される。

◯ 題字を書いた蘇局仙(そ・きょくせん/1883~1991)は、上海出身の書家・詩人。清朝末期に科挙を受けて秀才となった「末代秀才」の一人で、清朝から中華民国〜文化大革命、改革開放までを生き抜いた人物でもある。
長く教育に携わりながら書を続け、1979年、97歳頃に全国規模の書法コンクールで一等賞を受賞し、老書家として広く知られるようになった。

◯ 関連作品:上海は様々な時代を背景に描かれてきたが、最近の上海なら『ふたりの人魚(2000)』や『夜の上海(2007)』、ドラマ『30女の思うこと 〜上海女子物語〜(2020)』などがある。

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太湖・無錫 13:40 【1980年の風景】
  • 帆船での漁・田園風景・田植えシーン

太湖は、上海・蘇州・無錫・常州・湖州などのそばに位置する巨大な淡水湖で、無錫(むしゃく)はその北岸~北西岸に接する代表都市。帆を張った漁船が湖面を行き交う。
無錫は古くから「魚米の郷」と呼ばれた江南の豊かな地域で、太湖の魚介や水田と深く結びついてきた。『長江』でも「太湖三白」と呼ばれるシラウオ(銀魚)、白魚、白エビの、白魚の漁の様子が映され、一面の水田で田植えをする人々が映る。
現在の長江デルタは上海~蘇州~無錫が巨大な都市・工業帯としてほぼ連続しているが、1980年の無錫周辺がまだかなり田園的に見える。

このわずか5年ほど後、日本では尾形大作『無錫旅情』が大ヒットする。同曲は無錫市の日本人観光客誘致をきっかけに作られ、上海、蘇州から太湖、無錫へ向かう傷心旅行を歌ったもの。歌にも太湖の漁と水田という映画通りの江南の風景が唄われている。


www.youtube.com 尾形大作 ☆ 無錫旅情

 

②鎮江 17:00 【三国志】【名勝・旅行】
  •   甘露寺で京劇同好会を訪問する。

甘露寺は鎮江の北固山に建つ古刹で、長江を望む名勝。
『三国志演義』では、孫権が妹・孫尚香との縁談を利用して劉備を呉へ招いた「劉備招親」の舞台として知られる。三国志との結びつきは京劇にも受け継がれ、「甘露寺」「龍鳳呈祥」などの演目として親しまれてきた。

京劇といえば名作『さらば、わが愛/覇王別姫(1993)』だ。

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③南京 19:20 【1980年の風景】【日中戦争】
  • 長江大橋から街を空撮。国営市場から街路に立ち自動車・バスを撮影。
  • 孫文陵墓・中山陵を紹介(さだ本人は出てこない)
  • 中華門で日本軍進駐について触れ、門前に立ち尽くす。

◯ 最初に映るのは、1968年に完成した南京長江大橋。文化大革命の最中であった当時は、中国の「自力更生」を象徴する国家的建造物であり、新中国の南京を代表する景観でもあった。撮影時期は完成からわずか13年しか経っていない。

◯ 空撮シーンに登場する交差点は、鼓楼広場(鼓楼广场)。
鼓楼公園のすぐ横となる。現在の鼓楼広場北西側には、南京の超高層ビル・紫峰タワーがそびえているが、もちろんまだ存在しない上、ちょうど「広場が姿を変える直前」という貴重なタイミングでもある。
撮影2年後あたりの1982~83年に中央部にあった観閲台を撤去し、公園へ改造する。毛沢東時代から続いていた「政治集会・閲兵のための巨大広場」としての鼓楼広場の最末期の姿。道路の形は残っているのに、周囲の都市だけがまるで別世界になっている。

一组今昔对比照,带你看南京40年城市变迁......_我苏网より

 

中華門では、テロップでも「昭和12年12月13日 日本軍進駐」とはっきりと示される。昭和12(1937)年12月13日は南京陥落の日であり、南京大虐殺をめぐる歴史でも決定的な日付だ。中華門は南京城南部の巨大な城門で、日本軍の南京攻略戦でも戦闘地域となった。撮影時の1980年にはそれがわずか43年前という生々しさが残っていた。

◯ 南京大虐殺を描いた中国作品には以下のようなものがある。

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④黄山 28:50 【詩・文学】【名勝・旅行】
  • 道端で出会った仔犬とともに山を登る。

黄山は安徽省南部にある中国を代表する名山。切り立った花崗岩の奇峰と奇岩、松、山々の間を流れる雲海で知られ、中国の山水画や文学にも大きな影響を与えてきた。
明代の旅行家・徐霞客も二度訪れて絶賛しており、現在では「五岳帰来不看山、黄山帰来不看岳」とまで称される。1990年には世界複合遺産に登録。

www.his-j.com

◯ 『長江・夢紀行』によると、この時に拾った仔犬はその後の撮影にも帯同し、最後は演出の徳安恂が長崎に連れ帰って飼っていたという。

 

 

⑤景徳鎮 32:15 【1980年の風景】【名勝・旅行】
  • 陶器の工房を訪問し、製造工程を見学する。

◯ 中国を代表する陶磁器の街・景徳鎮では、当時の主要国営工場の一つで、のちの「十大国営瓷廠」に数えられる存在の建国瓷廠を訪問。土を練るところから成形、焼成まで製造工程を見学し、最後には完成した陶磁器が木造帆船で出荷されていく。
景徳鎮を流れる昌江は、鄱陽湖を経て長江へつながり、古くから陶磁器輸送の重要な水路だった。国営工場を中心とした産業構造も、こうした帆船による水運も後に大きく変化する。改革開放によって国営瓷廠体制は解体・再編、民営企業や個人工房、芸術家、観光・文化産業などが大きな比重を占めていく。

tamakino.hatenablog.com 

 

 

⑥九江 38:35 【名勝・旅行】

◯ 景徳鎮から鄱陽湖水系を経て、再び長江本流へ。長江南岸の港町・九江では、さだまさしが川辺で釣りを楽しむ。雄大な長江を眺めるだけでなく、自分で魚を釣る事で身近に感じようとする。
その後、大型船に乗り込み、長江を遡って武漢へ向かう。こうした一般旅客船による船の便は2000年代初頭には消えていき、観光船へと移行した。

 

⑦武漢 42:35 【1980年の風景】【日中戦争】【名勝・旅行】
  • 港から旧租界・三教街(現:鄱陽街)を空撮で見せる。
  • 武漢長江大橋の紹介
  • 再び旧租界、家族の記憶
  • 通訳との別れ、武漢空港で見送る
  • 武漢大学で日本語を学ぶ学生と語り合う。

◯ 九江から船で長江を遡り、大都市・武漢へ。到着すると映画は空撮に切り替わり、漢口に残る旧ロシア租界の三教街を映し出す。漢口は長江交易の重要拠点として発展し、19世紀後半以降、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、日本の租界が置かれた国際都市だった。三教街(現:鄱陽街)はロシア租界にあった通り。煉瓦造りの洋館が密集する中をズームするのは、20世紀初頭ロシア商人によって建てられた、旧租界を代表する集合住宅「巴公房子」とみられる。近年に大規模な保存修復も行われた。現在の高層化した武漢とはかなり印象が違う。

◯ 旧ロシア租界の空撮から、1957年に開通した武漢長江大橋へ。道路・鉄道と上下二層の巨大橋で、長江本流に初めて架けられた橋として知られる。長江によって分断されていた中国南北の鉄道交通をつないだ、建国初期を代表する国家プロジェクト。ソ連の技術援助を受けて建設された点も興味深い。

◯ 映画は再び漢口の旧租界へ。武漢はさだにとって特別な街だった。約40年前、父と母がここで青春時代を過ごしていたのだという。幼い頃から両親に武漢の話を聞かされ、実際には訪れたこともない街を想像して2曲も歌を作っていた。雨の旧租界で路上にしゃがみ込む姿は、映画ポスターなどにも使われた作品を象徴するシーン。

◯ 武漢をイメージして「2曲も作ってしまった」というのは、この2曲。

「フレディもしくは三教街 ―ロシア租界にて―」(グレープ、1975年)

タイトルは、まさにこの場所のこと。彼は母親から聞いた話だけで「三教街」「ロシア租界」を舞台にした歌を書いていた。戦時中、武漢の商社で和文タイピストとして働いていた母、喜代子さんの記憶をもとに、創作を加えて作った物語とされている。


www.youtube.com フレディもしくは三教街~ロシア租界にて~/コミュニケーション収録曲 # グレープ(CD音源)

 

「椎の実のママへ」(さだまさし、1978年)

こちらは中国・武漢と長崎を結ぶ曲。


www.youtube.com 椎の実のママへ

 

◯ 武漢では、ここまで旅に同行してきた中央電視台の通訳と別れる。飛び立つのは、中国民航のソ連製旅客機イリューシンIl-14。映像に見える「606」は実際に当時の湖北民航が運用していた機体番号で、32人ほどを乗せる小型の双発レシプロ機だった。ここから、さだまさしはいよいよ「一人旅」を始める。

◯ ちなみに、この中国民航機には後日談がある。
映像に映る中国民航のIl-14「606」号機はこの後、1983年4月、武漢―長沙―広州便の運航中にハイジャック事件に遭っている。犯人が爆発物を爆発させ機体に穴が開いたが、操縦を続けて長沙空港への着陸に成功。犯人2人を除いて死者は出なかった。
「中国民航」も今では見られない。当時の中国民航(CAAC)は民間航空を管理する行政機関であり、全国唯一の航空会社でもあった。1987年以降に政企分離が行われ、中国国際航空、中国東方航空、中国南方航空などへ分割された。

◯ 武漢大学で学生たちと話をしている場所は、1931年に完成した旧男子学生寄宿舎「老斎舎」で、現在も残る武漢大学を代表する歴史的建築の一つ。中国式の瓦屋根と西洋建築を組み合わせた独特の建物。日中戦争中、武漢大学が四川省へ疎開すると、この建物は日本軍によって使用された。

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⑧岳陽 48:20 【1980年の風景】【詩・文学】【名勝・旅行】
  • 長江を流れる木排(筏)の空撮
  • 屋外映画館
  • 岳陽楼

◯ 空撮で、小型船に曳かれながら川を進む巨大な木排が映る。これは大量の丸太そのものを筏状に組み、木材を輸送するもの。長江や洞庭湖では古くから盛んだった輸送方法で、湖南などから集められた木材は洞庭湖を経て岳陽から長江へ入り、武漢や南京、上海方面へも運ばれた。長江水運のかつての日常風景でもある。

◯ 屋外にずらりとベンチが並ぶ屋外映画館。当時の中国ではテレビがまだ十分に普及しておらず、露天での映画上映や移動映写は人々にとって身近な娯楽だった。1970年代末から80年代初頭は中国の映画観客数が史上最大級に達した時期でもあり、映画が大衆娯楽の中心だった。

◯ 空から捉えるのが、中国を代表する楼閣の一つ岳陽楼。晩年の杜甫がここから洞庭湖を眺めて詠んだ名作『登岳陽楼』も紹介される。杜甫自身も成都、奉節、三峡を経て晩年にこの地方へ辿り着いている。

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⑨汨羅 50:25 【文化大革命】【名勝・旅行】
  • 10万人が熱狂するドラゴンボート大会に参加

汨羅江の両岸を埋め尽くす大群衆と龍舟競渡。汨羅は、戦国時代の詩人・屈原が入水したと伝えられる土地で、端午節に龍舟(ドラゴンボート)を漕いで屈原を偲ぶ文化が古くから受け継がれてきた。
撮影は1981年の端午節(6月)。前年の1980年に、文革などによる長い中断から復活して行われた大規模な龍舟大会には10万人以上が集まり、翌1981年には参加する龍舟が16艘に増加。現地の記録にも、中日合作『長江』の制作組が現地で競技を撮影したことも残されている。

なお前年1980年には、文化大革命で損傷した屈原を祀る景勝地・屈子祠の修復も行われている。『長江』が訪れたのは、そんな改革開放初期の伝統文化復興の熱気溢れるタイミングでもあった。

汨罗江上龙舟赛:最忆是“原味”

 

 

⑩荊州 52:15 【1980年の風景】【名勝・旅行】
  • 古城と大北門の空撮
  • 西漢時代の古墓・ミイラ

◯ 荊州は古城の空撮から始まる。映っているのは大北門(拱極門)と、その上に建つ朝宗楼。朝宗楼は1838年再建の清代城楼だが、映画では上層の壁や建具が失われ、屋根にも草が生えた荒廃した状態で映っている。映画撮影と同じ1981年に全面修繕されており、『長江』は修繕直前の姿を記録したという貴重なタイミングだ。
さらに興味深いのはその周囲で、城壁のすぐ外には池や田畑、低層の集落が広がる。現在では市街地が大きく拡大しており、「城壁が本当に街の境界だった」事がわかる。 

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◯ 続いて登場するのが、1975年に鳳凰山168号漢墓から発見された西漢時代の男性「遂」の遺体。「西漢男屍」と呼ばれるこの遺体は、紀元前167年に埋葬された約60歳の男性で、2000年以上を経ても皮膚や筋肉、内臓などが残る驚異的な保存状態で発見された。墓から出た文書や印章によって名前や身分まで判明している。撮影時は発見からまだ5~6年しか経っておらず、遺体が浸かっていた赤色の棺液についても、「成分は研究中」と紹介される。

 

 

⑪宜昌 54:40 【1980年の風景】【日中戦争】
  • 日本軍の襲撃・空襲を経験した人々へインタビュー
  • 葛洲ダムの建設現場。

宜昌長江三峡の入口に位置し、日中戦争では中国西部へ向かう交通・軍事上の要衝だった。1940年、日本軍は宜昌作戦を展開し、6月12日に宜昌を占領。長江を西へ進出する最前線の一つとなり、中国軍との激しい攻防が続いた。
日本軍は宜昌市街だけでなく周辺にも陣地や飛行場を構築し、対岸の中国軍と対峙した。占領地域では住民への殺害、略奪、徴発なども記録されており、民間人も長期間にわたって戦争に巻き込まれた。
『長江』では当時を知る人々自身に語らせる。日本軍の指示に従わなかった女性が銃撃されるのを目撃した人物、夫を連行された女性、そして春節の日にさえ空襲があったと振り返る人。撮影された1980~81年は宜昌占領からまだ約40年しか経っておらず、人々自身の記憶として残っていた。

◯ 巨大な建設現場は、三峡ダムではなく葛洲ダム。宜昌市街のすぐ上流、三峡の出口付近に位置し、約20年後に本格化する三峡ダム建設の重要な前段階として、長江本流で最初の大型水利施設として知られる。1970年に着工、撮影された1980~81年はまさに工事の最盛期だった。1981年には長江本流の締切から発電機の稼働開始と、長江そのものをせき止め、作り替えている途中の現場である。

◯ 宜昌での日本との戦闘については、著名脚本家・蘭暁龍(ラン・シャオロン)と名プロデューサーチーム・正午陽光による良作映画『得闲谨制(日本未公開、2025)』が昨年公開されている。

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⑫三峡 58:25 【1980年の風景】
  • ダム完成以前の渓谷を船で上っていく。

◯ 大小さまざまな船や艀(はしけ)、筏などが行き交い、1980年代初頭の長江が巨大交通路だったことが分かる。
撮影隊が乗ったのは、当時長江を航行していた客船「東方紅」。さだまさしの著書『長江・夢紀行』によれば、この船には約30人もの撮影クルーが乗り込んでいた。
「東方紅」など、この時代の長距離客船の多くはすでに姿を消している。鉄道や高速道路、航空網の発達によって長江の旅客輸送そのものが大きく変わり、さらに三峡ダム完成後には水位や景観も変化した。ここに映るのは、かつての長江水運の姿でもある。

 

⑬風箱峡 1:03:00 【1980年の風景】【古代】【名勝・旅行】
  • 断崖の桟道を歩いて懸棺を見る

◯ 三峡の一つ、瞿塘峡にある風箱峡。断崖の洞窟に納められた古代の懸棺(岩棺)が見える。風箱峡の懸棺は現在も残っており、白帝城・瞿塘峡景区の見どころの一つとして紹介されている。
現在この風景は大きく変わった。三峡ダムの完成によって瞿塘峡の水位は大幅に上昇。ダム建設前に約88mだった瞿塘峡の水位が、更に87mも上昇したとされ、古桟道など景観の一部は水没した。断崖そのものや風箱峡の懸棺は現在も残っているが、『長江』に映るような、はるか下を長江が流れる景観を見ることはできない。

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三国志・唐詩の世界 【三国志】【詩・文学】【名勝・旅行】
  • 甘露寺、赤壁、関羽墓、張飛墓を紹介
  • 白帝城を訪問、李白『早発白帝城』を紹介

◯ 長江を遡るにつれ、『三国志』の世界が次々と現れる。なお、ここに映る張飛廟は現在ここにはない。三峡ダム建設による水没を避けるため、2002~03年に張飛廟は解体され、長江を約32km上流へ移転した。単なる新築ではなく、建築部材を番号管理して解体し、可能な限り元の姿を再構成するという巨大な文化財移転事業だった。現在の建物も約9割が旧廟から移した部材とされている。

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白帝城の空撮がものすごく重要だ。1981年には白帝城の周囲に畑と河原があり、長江との間にかなり大きな高低差がある。現在は三峡ダムの貯水によって水位が上昇し、白帝城はほとんど島のような景観になっている。

『早発白帝城』李白が白帝城を発ち、長江を一気に下って江陵へ向かう詩で、現在でも白帝城といえばこの詩と共に紹介される。
白帝城と奉節は李白だけでなく、杜甫とも深い。晩年の杜甫は現在の奉節にあたる夔州で約2年間暮らし、『登高』『秋興八首』など数多くの代表作を残した。

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赤壁を描いた映画といえば、もちろん『レッドクリフ(原題:赤壁)』前後編。

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⑭奉節 1:07:40 【1980年の風景】
  • 国慶節に沸く、今はなき奉節旧市街を訪問

◯ 1980年10月1日の国慶節に奉節を訪れている。当時の中国では浪費を避けるため、国慶節の祝賀行事を簡素化する方針が出されていた。
映画は祝賀行事だけでなく、路上の薬屋、靴屋、耳掃除屋、歯医者、洗濯屋などの光景や、講釈師の語りというごく普通の生活を撮っている。
しかし、この旧奉節市街は三峡ダム建設に伴って移転・撤去され、現在は同じ街を歩くことができない。旧市街の大南門碼頭はかつて人と物が行き交う交通の要衝だったが、2000年代初頭には移転によって街そのものが急速に姿を消していった。映像から23年後となる2003年の現地報道にも、旧市街撤去後の大南門碼頭が以前の賑わいを失っていく様子が記録されている。

 

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◯ 街の多くは姿を消した。そして『長江』から約25年後、その消滅していく奉節にカメラを向けたのが、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の『長江哀歌(2006)』だった。

『長江哀歌』の撮影当時、旧奉節では建物の解体が急速に進んでいた。賈樟柯は当初、画家・劉小東を追ったドキュメンタリー『東(2006)』を撮影するために現地を訪れたが、変貌していく街を目の当たりにして劇映画を構想したという。撮影中にも建物が次々と消えていき、解体との競争のような状況だったと振り返っている。
さらにその10年後、楊超(ヤン・チャオ)監督の『長江 愛の詩(2016)』では、三峡ダム完成後の長江を船で遡っていく。同じ長江を舞台にした三本を並べると、わずか35年ほどの間に、川とその周囲の風景がどれほど大きく変わったのかが見えてくる。

さらに賈樟柯は『長江哀歌』も含めた、2000年代から撮り続けてきた映像を約20年後に掘り起こし、新しく撮影した映像と組み合わせて『新世紀ロマンティクス(2024)』を作った。撮影した当時には何気なく見えた街、人、生活の断片が、時間を経ることで別の意味を帯びていく。

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⑮豊都 1:14:10 【1980年の風景】【文化大革命】【名勝・旅行】
  • 豊都鬼城・天子殿で文革による破壊の跡を見る
  • 数少ない道士と出会い、失われた「路引」を再現してもらう

◯ 豊都では、民間伝承での霊魂の帰着地、名山の豊都鬼城・天子殿へ向かう。道端には破壊された石仏が残る。文化大革命では「四旧」の破壊とともに寺廟や神像などが大きな被害を受け、豊都の宗教文化も例外ではなかった。撮影された1980年頃は文革終結からまだ数年。現在のように観光地として整備・復元される以前で、その傷跡が風景の中に生々しく残っている。

◯ ここでさだまさしは一人の道士と出会い、昔使われていた「路引」を再現してもらう。路引とは本来「通行証」を意味する言葉だが、豊都では死者が冥界へ旅立つ際に持たせる、いわば「あの世への通行手形」。文革によって版木も破壊され、印も一つしか残っていなかったものを、その道士は記憶を頼りに一晩で手描きで再現してくれたのだという。

 

 

⑯重慶 1:20:40 【1980年の風景】【日中戦争】【文化大革命】
  • 霧の橋からケーブルカーに乗車し、衣料品販売店へ
  • 中梁山炭鉱で炭鉱夫たちにインタビュー
  • 日本軍捕虜収容所跡を訪問し、日本兵が残した文字を見る
  • 成都行きの列車に乗って次の目的地へ

◯ 『長江』での重慶は、約15分を費やす大きなパートになっている。霧に包まれた街、長江を渡る交通機関、急な階段や商店街といった都市の姿から始まり、防空壕、中梁山炭鉱、そして日本軍捕虜収容所跡へ。観光都市としての現在からは想像しにくい、1980年頃の重慶が何層にも重なって記録されている。

◯ 霧の中へ消えていく巨大な橋。現在も使われている重慶長江大橋で、完成したのは1980年6月。開通からわずか数か月後の姿を撮影していたことになる。現在は2006年完成の復線橋が隣に並ぶため、一本の橋だけが長江を跨いでいた映画の風景はもう見ることができない。

◯ 急斜面をレールで上り下りするケーブルカー(纜車)。現在観光名所となっている長江ロープウェー(長江索道)ではなく、かつて使われていた地上式のケーブルカーである。当時の重慶にはこうした纜車が数多く存在したが、道路整備などによって次々と姿を消していった。
登場するのは「両路口纜車」。映画では「ケーブルカーは2ヶ所ある。料金は上りより下りが安い」と紹介され、実際に市民と一緒に乗車する。両路口纜車は1996年に廃止され、その跡地に現在も使われている巨大なエスカレーター「皇冠大扶梯」が開業した。

◯ 映画が「服装一条街」と紹介する衣料品専門の商業空間。場所は特定できていないが、当時の両路口には百貨公司など大きな商業施設が集まっていた。賑わう人々の服装にはまだ文革期の色彩が濃く残る一方、商品を並べたショーケースや巨大な女性モデルの広告には、改革開放直後の消費社会が動き始めた気配も見える。

记忆中的两路口-印象重庆网

 

 

重慶②・日中戦争 【日中戦争】
  • 町中に多数が残る防空壕跡
  • 日本軍捕虜収容所跡とされる建物を訪問

重慶は、南京陥落後に国民政府が移った、中国側の戦時首都であり、日本軍による大規模な重慶爆撃に耐えながら抗戦を続けた中心都市であった。街なかに多数残り、生活に転用されている防空壕跡が、当時の激しさを伺わせる。

重慶郊外へ出ると、映画はかつて日本軍捕虜を収容していた建物へ向かう。現在の巴南区南泉街道紅旗村に残る「劉家湾日本戦俘営旧址」とみられる場所で、もとは清代に建てられた地主の荘園だった。1944年、日本軍の進撃により貴州省鎮遠から移送された、日本人捕虜たちの収容所の一つとして使われた。
『長江』が訪れたのは、それからまだ35年ほどしか経っていない1980年頃。古い建物は別の用途にも使われながら残り、その壁には捕虜が書いた
「今宵四川の奥で三月」
「懐かし故郷」
「待っていてかあちゃん」
といった日本語まで残されている。その後、旧収容所は一部が取り壊し・改築され、残った建物も老朽化した。2021年には保存のための修繕が始まり、重慶市の文化財として登録されている。ただし、映画に記録された日本語の壁書が現在も残っていることは確認できない。

 

重慶③・中梁山炭鉱 【1980年の風景】
  • 真っ黒になって坑内から出てくる炭鉱夫
  • 父・祖父と三世代の鉱夫に労働環境などをインタビュー

◯ 坑内から列車で戻ってきた鉱員たちが、ヘルメットや道具を返却していく。そこから炭鉱一家三世代の話を聞く。現役世代は家族との暮らしを語り、その父親は「解放前の私たちの生活はとても苦しかった」と振り返り、裸同然でカンテラを手に坑内へ入った時代から、作業服やヘルメットが整備された現在までの変化を「夢のようだ」と語る。さらに祖父は、子供の頃には学校へ行けなかった自分と、労働者にも教育の機会が与えられる現在を比較する。炭鉱を通して中国社会がどう変わったのかを見せる。 

中梁山炭鉱は1950年代から国家主導で本格開発された重慶有数の国営炭鉱で、ガスの非常に多い危険な鉱山でもあった。撮影時期の1980年には、長年の安全対策によって18年間重大なガス爆発事故を起こしていない炭鉱として全国的に紹介されている。
現在、中梁山での採炭はすでに終了しており、「中梁山風景区」の一部として再開発が計画・進行している。

◯ 中国の炭鉱を描いた作品なら『盲井(日本未公開、2003)』などが代表的だ。

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◯ 重慶での旅を終え、朝6時53分発の208次列車で成都へ向かう。現在、208次という列車はすでに存在せず、成渝間の旅客輸送も高速鉄道が中心となった。
列車が走る成渝鉄路は1952年開通の、新中国成立後に初めて自主建設された鉄道。映画に映る重慶駅(菜園壩火車站)も同年開業。駅は2022年に旅客営業を停止し、現在は大規模な建て替え工事中。2028年完成予定の新駅には高速鉄道とともに、かつて208次が走った成渝鉄路も再び乗り入れる計画となっている。

 

◯ 重慶を舞台にした作品は、多様な切り口で作られている。本作『長江』の映像から連想されるのが、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)の『鼓書芸人(日本未公開、1987)』と、寧浩(ニン・ハオ)の『クレイジー・ストーン(2006)』だ。
『鼓書芸人』が描くのは日中戦争下、国民政府が移った戦時中の重慶。日本軍による空襲が続き、人々が戦争の中を生きていた時代である。
一方、『クレイジー・ストーン』に登場するのは、それから半世紀以上を経た現代の重慶。坂道や階段、ロープウェイ、入り組んだ古い街並みを使い、急速に変化する巨大都市そのものを映画の舞台装置にしている。

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◯ 他にも重慶を描いた作品は多数ある。

『重慶ブルース(2010)』
工業都市・重慶を描いた人間ドラマ

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『火鍋英雄/火锅英雄(2016)』

防空壕を再利用する、重慶ならではの文化を利用した作品。

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『エア・ストライク(2018)』
重慶爆撃を描く。そこに参加する米軍将校をブルース・ウィリスが演じた。

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『忠犬八公 (2023) 』

『ハチ公物語』の中国リメイク作は重慶が舞台。ロープウェーも登場する。

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『少年の君(2019)』

この名作も重慶が舞台となっている。

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⑰大足 1:36:15 【1980年の風景】【古代】【文化大革命】【名勝・旅行】
  • 集落を歩く
  • 大足石刻の磨崖仏群、釈迦涅槃像。
  • 巨大な水車

◯ 北山と宝頂山の磨崖仏像群を訪れる。

現在「大足石刻」と呼ばれるのは、大足一帯に残された石窟・磨崖造像群の総称。なかでも北山、宝頂山、南山、石門山、石篆山の五か所が特に重要で、1999年に世界文化遺産へ登録された。造営は主に9~13世紀。様々な宗教と当時の庶民生活まで造像の中に取り込んだ、中国石窟芸術の後期を代表する存在だ。

しかし『長江』が訪れた1980~81年頃は、現在とは状況がかなり違った。
大足石刻は1950年代から保護が始まり、北山・宝頂山は1961年には全国重点文物保護単位となっていたものの、文革期には宗教文化そのものが厳しい状況に置かれた。主要な石刻群は破壊を免れ、文革終了後には保存・整備が再び進められていく。「文革をくぐり抜けた巨大な文化遺産が、再び保存・公開へと向かい始めた」頃の姿で、1980年頃の日常風景が続いている。

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⑱宜賓 1:42:30 【1980年の風景】
  • 金沙江と岷江の合流地点と市街地を空撮で捉える
  • 金沙江(本流)方向に向かう許可が下りない

宜賓を空から捉える。ここはチベット高原方面から流れてきた金沙江(きんさこう)と、成都盆地を南下してきた岷江(みんこう)が合流する場所。二つの大河はここから「長江」と名を変えて東へ向かう。そのため宜賓は現在も「万里長江第一城」と呼ばれている。
内側に広がる旧市街が印象的だ。黒い瓦屋根の低層住宅が隙間なく埋め尽くし、その中から新しい中層建築がところどころ顔を出している。現在の宜賓とはかなり異なる。宜賓では1990年代以降、大規模な旧城改造が進み、古い住宅が面的に取り壊され、主要道路沿いには中高層建築が建てられた。

◯ 宜賓は旅の大きな転換点となった。当初の計画では金沙江をさらに遡り、長江の源流を目指すつもりだった。しかし著書『長江・夢紀行』によれば、中国当局から「危険だから」という理由で雲南省・青海省への立入り許可が下りなかった。
映画にも、先へ進めなくなったさだが悩み、各所へ電話をかけて交渉する姿が映っている。結局、金沙江の遡上は断念。そこで目の前のもう一本の川、岷江を遡るルートへ変更し、成都からさらに九寨溝方面を目指すことになる。『長江』後半の旅程が決まっていく。

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⑲成都 1:53:25 【1980年の風景】
  • 自由市場を歩く、群衆が取り囲む
  • 成都動物園のパンダ

◯ この自由市場そのものが当時は新しい風景だった。文革終了後、中国では計画経済一辺倒だった商業政策が見直され、1978年末には集市貿易が「社会主義経済の必要な補完」と位置づけられた。四川は経済改革の動きが特に早く、成都では企業の自主権を広げる実験も全国に先駆けて始まっていた。
『長江・夢紀行』の後記で、さだまさしは撮影初期にはこうした自由市場を成都くらいでしか見なかったのに、その後上海へ戻ると、そこにも自由市場ができ始めていたことに驚いている。実際、上海では1979年10月に閉鎖されていた十六鋪の農副産品市場が営業を再開し、1980年には60以上の農貿市場が開設されていた。

成都動物園。現在の成都といえば巨大な「成都ジャイアントパンダ繁育研究基地」が有名だが、1987年の設立で撮影当時にはまだ存在しない。成都動物園は1976年に現在地へ移転したばかりだった。一方でパンダとの関係は古く、1953年から野生個体の救護を行い、奇しくも撮影時期の1980年に人工授精による繁殖にも成功している。後に成都が世界有数のパンダ保護・繁殖研究の拠点となっていく、その前史がここにある。

◯ 成都を舞台にした映画として思い出すのが、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の『四川のうた(2008)』だ。『長江』が訪れた1980年前後は、自由市場がようやく復活し始めた一方、社会主義時代の都市や生活がまだ色濃く残っていた頃。それから約四半世紀後、『四川のうた』は成都の巨大国営工場が姿を消し、その跡地が高級住宅地へ変わっていく過程を記録した。

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⑳楽山 1:58:40 【1980年の風景】【古代】【名勝・旅行】
  • 空撮
  • 楽山大仏を訪問。
  • そこにいた子どもたちの歌を採譜し、ポラロイドで記念写真を撮る

◯ 三つの川が集まる水域と、そこへ突き出すような凌雲山を捉える。その断崖に彫られているのが、世界最大級の石刻仏として知られる楽山大仏である。

大仏は唐代の713年に開削が始まり、約90年をかけて完成した。高さ71m。現在は峨眉山とともに世界遺産となり、楽山を代表する観光地だが、『長江』が訪れた1980年前後はまだそのずっと以前だった。1980年に楽山を訪れた外国人観光客はわずか4,971人。撮影後となる翌1981年には、新中国初期の商業的な武侠・アクション映画の先駆けであり、楽山大仏を舞台にした中国映画『神秘的大佛』が公開され、観光客も急速に増えていく事になる。

本作でさだまさしは、子供たちと一緒に大仏そのものの足の甲へ乗り、並んで記念写真を撮っている。 現在はもちろんこんな事はできない。まだまだ地元の子供たちの生活空間とほとんど地続きだった時代だ。

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㉑峨眉山 2:06:00 【1980年の風景】【古代】【文化大革命】【名勝・旅行】
  • ひたすら山を登る
  • 報国寺に立ち寄る

◯ 『長江』最後の目的地は峨眉山。まず麓の報国寺を訪れ、そこに掲げられた峨眉山の山水画を見た後、一行は実際の山へ入っていく。

峨眉山は普賢菩薩の霊場として知られる中国仏教四大名山の一つ。映画には寺院だけでなく、山中で読経する僧侶や、数珠を手に祈る巡礼者の姿も残されている。文革後に峨眉山仏教協会が復活したのは1979年末。撮影された1980年11月は、宗教活動がようやく戻り始めた頃だった。

一方、現在のような観光登山の環境もまだ整っていない。山上まで通じる道路やロープウェイができる以前で、一行は徒歩で山を登っていく。『長江・夢紀行』で、さだまさしはこの峨眉山行きを「最後のアタック」と振り返っている。最後に一行は峨眉山を登り、山上で朝を迎える。眼下には一面の雲海。

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番外:映画ではカットされた訪問地

映画では登場しないが、著作『長江・夢紀行』で記述がある場所が3か所ほど存在する。それらがまた大変興味深い場所で、なぜ映画からカットしたのか不思議になるほどだ。

㉒張家界――世界的観光地になる直前 【1980年の風景】【名勝・旅行】

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撮影隊は1981年6月1日に現在の張家界を訪れている。もともと予定された目的地ではなく、『長江・夢紀行』によれば、桃源郷を求めて訪れた桃源に落胆したさだへ、中国側の人物が「もっと桃源郷らしい場所がある」と紹介したことから急遽向かったという。

中国側の記録にも『長江』撮影隊13人の訪問が残っており、さだは岩壁に「青岩山美、美極了!」と書き残した。現在、その文字は失われている。
興味深いのは時期だ。張家界が中国初の国家森林公園に指定されるのは撮影の翌1982年、武陵源として世界遺産になるのは1992年。当時はまだ国営林場を中心とした地域で、世界的観光地になる直前だった。
現在の張家界は空港や道路、ロープウェイなどが整った巨大観光地となり、訪れること自体は難しくない。しかし、『長江』が撮ったのは「張家界」がまだ出来上がる前の張家界だった。

その映像が未使用フィルムに残っているなら、現在では国家森林公園成立直前の姿を記録した貴重な映像資料になっている可能性がある。

 

 

㉓成都・文殊院――文革後、再び僧侶が生まれる 【1980年の風景】【文化大革命】【名勝・旅行】

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成都の文殊院でも『長江』撮影隊はカメラを回していた。『長江・夢紀行』によれば、そこで撮影したのは文化大革命後初めて行われる得度だったという。若者たちが正式に仏門へ入る、その瞬間を撮影していた。

中国側の記録を調べると、1980年秋、文殊院では寛霖法師によって成都地区の中国仏学院の学生4人に沙弥戒が授けられている。文殊院自体も文革期には宗教活動を停止し、1979年になって再び開放されたばかりだった。つまり撮影隊が居合わせたのは、単なる寺院行事ではない。文革によって途切れていた中国の仏教が、人から人へ再び受け継がれ始める瞬間だったことになる。

 

 

㉔蜀の桟道――祖父が歩いた道を、自分の足で辿る 【1980年の風景】【三国志】【名勝・旅行】

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もう一つ、完成版には登場しない重要な旅がある。成都から北へ向かい、険しい山岳地帯を抜ける「蜀の桟道」へ向かった旅だ。

ここは単なる名勝ではない。『長江・夢紀行』によれば、さだまさしの祖父・佐田繁治は、約80年前にこの蜀の桟道を通って中国大陸を旅していた。黄河を辿り、シルクロードを歩き、さらにゴビ砂漠を単独で横断したという人物で、さだにとって蜀の桟道を歩くことは、祖父の足跡を自分自身で辿ることでもあった。

ところが、中国側は当初難色を示し、撮影隊は交渉を続ける。約1か月後、成都滞在中にようやく許可が下りたものの、35mm映画カメラによる撮影は認められなかった。そこでさらに交渉し、最終的にはビデオカメラで撮影したという。

現在、蜀道を代表する剣門関などは観光地として整備され、道路や鉄道を使って容易に訪れることができる。古代の桟道そのものも復元・整備された部分が多く、1980~81年にさだが歩いた「蜀の桟道」と同じ体験をそのまま再現することは難しい。

 

そして現在から見ると、この旅にはもう一つ複雑な意味が加わる。祖父・佐田繁治については、旧日本陸軍の資料に「新疆ウルムチ 佐田繁治 軍人下士ニシテ諜報ニ服ス」と記された記録が残っている。つまり祖父の中国大陸での足跡は、単なる冒険旅行ではなく、日本の大陸進出や軍事活動とも無関係ではなかったことになる。

長江を遡る旅は、中国の歴史を遡る旅であると同時に、さだまさし自身の家族が中国と関わってきた歴史を遡る旅でもあった。
そして、その個人的には極めて重要だったはずの旅が、完成した『長江』には一秒も残されていない。

エッセイ出会いの旅【さだまさし】:JR西日本

陸軍のスパイだった「さだまさしの祖父」知られざる諜報活動 | Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌]

 

 

 

【制作背景・トリビア】

公開時期・DVD発売/配信・関連作品

◯  1981年11月7日に、ドキュメンタリーとしては異例の東宝洋画系120館で劇場公開。興行収入も異例と言える5億円に達した。
2001年にDVD化され発売。

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◯ 映画以外にも、本作の撮影から派生した作品が多数ある。

  • テレビ番組『你好!中国 さだまさし ふれあいの旅』(NHK)

   1983年3月27日初回放送の全6回番組*1

 

  • 書籍『長江・夢紀行』

   撮影後記として書かれたエッセイ・写真集。上下巻

 

   『長江』撮影素材を中国側が使い、独自撮影を追加して再構成。全25話。

   約20数年後の長江を改めて撮影。『話説長江』当時の映像や人物を探し、1980年代と2000年代を対比する。全33話。

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→ 始まりは個人的なロマン

そもそもの始まりは、さだまさしのかなり個人的な中国への思いだった。祖父は戦前の中国大陸を旅し、両親も若い頃を中国で過ごしている。特に父が抱いていた中国への強い思いは、幼い頃からさだにも受け継がれていたという。やがて生まれたのが、「長江を遡り、その最初の一滴を自分の目で見てみたい」という夢だった。
後年の本人の言葉でも、「もとは、戦争中に中国にいたおやじの強い思いから始まった企画」と振り返っている。つまり最初から巨大映画を作ろうとしたわけではない。出発点にあったのは、父から受け継いだ中国への思いと、長江の果てまで行ってみたいという、極めて個人的なロマンだった。

 

→ 最初はテレビ企画だった

ところが、この個人的な夢が少しずつ巨大化していく。当初はテレビ用のビデオで撮影する程度の企画だったという。しかし、せっかく当時の中国を撮るのなら、「後々まで保存性のいいフィルムで残したい」と、さだは35mmフィルムでの撮影を選んだ。
もちろんビデオとは機材もフィルム代も現像費もまるで違う。大量に撮れば、その分だけ費用も膨らんでいく。後に巨額の借金を抱えることを考えれば、とんでもない選択だったとも言える。ただし45年後の今から見れば、この判断こそが『長江』の価値を大きく高めることになる。借金への最初の一歩が、同時に貴重な映像記録を残す最初の一歩でもあった。

 

→ 実はCCTVとの日中共同制作

さらに意外なのは、『長江』がさだまさし一人の道楽として作られた映画ではないこと。実際にはさだ企画と中国中央電視台(CCTV)による日中共同制作だった。中国側にも長江を映像で記録し、自分たちのテレビ番組を作る目的があり、CCTV関係者は後年、当時は資金や撮影技術の面から日本側との合作が必要だったと振り返っている*2。 日本側が撮影した35mm映像に中国側の追加撮影を加え、後には全25回の『話説長江』も誕生した。つまり人気歌手の道楽に中国が協力したのではなく、長江を撮りたかった日中双方の目的が重なった巨大プロジェクトだったのである。

 

→ 中国を約1年半かけて撮影

こうして1980年、『長江』の撮影が始まる。期間は約1年半。さだまさし本人も後年、「約1年半かけて撮影を行いました」と振り返っている。
上海から長江を遡り、南京、武漢、三峡、重慶、四川へ。さらに本編にはほとんど残らなかった張家界などにも足を延ばした。もちろん1年半ずっと、さだ本人が中国にいたわけではない。本人によれば自身の滞在は正味半年ほどで、その間も複数の撮影隊が各地で撮影を続けていたという*3。 一人の歌手が長江を旅する紀行映画に見えて、実際には1年以上にわたって中国各地で撮影が続く長期プロジェクトだった。

 

→ 撮影隊は一つではない

しかも、これだけの中国を一つの撮影隊で回ったわけではない。さだまさしは後年、「3班の撮影隊を組んだ」「3班かけて100万フィート撮った」と振り返っている*4
ところが完成版のクレジットをよく見ると、そこにはなんと第一班から第四班までがあり、それぞれに演出・撮影・照明などのスタッフが配置されている。さらに航空撮影やクレーン、VTR、スチールまで別に存在する。本人のいう「3班」がどの範囲を指すのかは分からないが、少なくともさだまさし御一行が長江を旅した、という規模ではまったくない。複数のプロ撮影班が同時に動く、本格的な映画撮影だった。

 

→ しかもスタッフが本気

さらに驚くのが、集められたスタッフの顔ぶれだ。たとえば第一班の演出を担当した徳安恂は、長崎放送(NBC)で長年ドキュメンタリー制作に携わってきた人物。1968年には米原子力空母エンタープライズの佐世保寄港を追った『佐世保激動の記録』で構成を担当し、1979年にも『一線譜のこどもたち』を手掛けている*5。 『長江・夢紀行』によれば、徳安はこの企画のために長崎放送を退職して参加したという。つまり、人気歌手が旅先にカメラマンを連れていった、という体制ではない。テレビ・ドキュメンタリーの第一線にいた人間まで引き込んで、本気で映画を撮ろうとしていた。

 

→ 第二班には原一男までいる

そして第二班のクレジットを見ると、さらに驚く名前がある。原一男だ。後に『ゆきゆきて、神軍(1987)』で世界的に知られるドキュメンタリー監督だが、この時点ですでに『さようならCP(1972)』『極私的エロス・恋歌1974(1974)』を監督し、独自のドキュメンタリー作家として注目されていた。 しかも『長江』では単なるスタッフではなく、映画全体の「構成」に名を連ね、第二班では「演出」まで担当している。どの場面を原が撮ったのかは分からないが、すでに一本立ちしていた映画監督を一つの撮影班の演出に据えるほど、制作陣には本格的なドキュメンタリーの人材が集められていたのである。

 

→ 市川崑までいる

そして撮りためた膨大な映像を一本の映画にまとめる段階では、さらに大物が登場する。市川崑である。『犬神家の一族(1976)』『悪魔の手毬唄(1977)』などをすでに手掛けていた、日本映画を代表する監督の一人だ。『長江』では「総監修」として参加しており、市川崑の公式年譜にもその仕事が記録されている。 さだ本人も後年、100万フィートもの映像について市川に「まとめていただいた」と説明し、自分は「現場監督」だったと振り返っている*6。 原一男らが各地で撮り、最後は市川崑がまとめる。もはや歌手が初監督した旅行映画という言葉では、実際の制作体制をまったく説明できない。

 

→ とにかく撮る

そして撮影方法も尋常ではない。さだまさし本人の回想によれば、使ったのは35mmフィルムで約100万フィート。長さにすれば約305km、上映時間に換算すればおよそ185時間分にもなる。完成した映画は約2時間半だから、単純計算でも完成版の70倍以上を撮ったことになる。しかも一班ではなく、複数の撮影隊を各地へ送り込んで、とにかく目の前にある中国を撮り続けた。一部資料では113万~120万フィートともされ、正確な数字には幅があるが、とてつもない量だったことは間違いない。フィルム代だけでなく、撮れば撮るほど現像費もかかる。そりゃ金がかかる。 巨額の制作費が、だんだん必然に見えてくる。

 

→ 空からも撮る

しかも撮影は地上だけではない。完成版では上海や南京、武漢、岳陽楼、長江を行く船など、各地で大掛かりな空撮が使われている。エンドクレジットにも「航空撮影」という独立した項目があり、4人のスタッフが名を連ねる。そして驚くのは、その撮影に中国人民解放軍のヘリコプターまで使用したこと。さだ本人も後年、「人民解放軍のヘリで空撮してるんですよ」と振り返り、長江で何度も空撮したため「これはお金かかりますわ」と笑っている*71980年前後の中国で、外国との共同制作映画のために人民解放軍のヘリを飛ばして空撮する。そりゃ金もかかるし、今考えるととんでもない撮影である。

 

→ 地上ではクレーンまで使う

空では人民解放軍のヘリを飛ばす一方、地上では撮影用クレーンまで持ち込んでいる。エンドクレジットにはわざわざ「クレーン」という独立した項目があり、浜崎和治の名前が記されている。実際に映画を見ると、単なる旅行記録とは思えないほど、カメラが大きく上下したり、人物から周囲の風景へ滑らかに視点を移したりする場面がある。撮影隊が訪れた土地を記録するだけなら、三脚を据えて撮れば済む。それでも『長江』は、35mmで撮り、空から撮り、地上ではクレーンまで使って、「映画」としての映像を作ろうとしていた。 こうして一つずつ制作体制を見ていくと、巨額の費用がどこへ消えたのかも、だんだん見えてくる。

 

→ それでも撮ったものの大半は使わない

ところが、そこまでして撮った映像の大半は完成版に使われていない。約100万フィート、上映時間にすれば約185時間分を撮影しながら、映画になったのはわずか2時間半ほど。単純計算なら使われたのは全体の2%にも満たない。しかも『長江・夢紀行』と照らし合わせると、さだ本人が訪れた張家界、成都・文殊院での得度、祖父への思いが重なる蜀の桟道など、かなり重要な旅まで丸ごと本編から消えている。35mmで撮り、複数班を動かし、ヘリまで飛ばして、それでも使わない。 「必要な場面だけ撮る」というより、まず目の前にある中国を徹底的に記録し、そこから一本の映画を作るという、とんでもなく贅沢な撮り方だった。

 

→ そして最大の目的は達成できない

これだけの人員と金を投入しながら、実は旅の最大の目的は達成できなかった。さだまさしが当初から目指していたのは、長江を遡り、「最初の一滴」を自分の目で見ること。ところが当時の中国では源流まで入ることができず、最後は四川省の峨眉山へ向かう。映画もそこで野営し、雲海を眺めるところで終わってしまう。100万フィート撮り、複数の撮影班を動かし、人民解放軍のヘリまで飛ばしたのに、そもそもの目的地にはたどり着けなかった。 しかし結果的には、源流へ到達すること以上に、その途中で出会った1980年前後の中国を膨大な映像として残すことになった。『長江』はある意味、目的を達成できなかったからこそ、別の価値を持つことになった映画でもある。

その価値を象徴するような出来事が、最近になって起きている。名匠・王家衛(ウォン・カーウァイ)監督が上海を描いたドラマ『繁花(2023)』で、1981年の『長江』の映像を実際に使用。そして、使用を快諾したさだまさしに感謝を述べ、『長江』が改革開放黎明期の中国の「貴重な記憶」を保存した作品だと評価している*8

 

→ 結果、35億円の負債

そして当然ながら、最後に残ったのが巨額の借金だった。さだまさし本人の回想では、『長江』で背負った負債は約28億円。さらに利息まで含めると、返済総額はよく知られる約35億円に膨らんだという。本人によれば、そのうち約8億円が中国側への撮影権料、残る約20億円ほどが撮影費だった。35mmで100万フィート、複数班を動かし、長期ロケを続け、人民解放軍のヘリまで飛ばす。ここまで制作背景を見てくると、「なぜ28億円も?」ではなく、「28億円も納得」と思えてくる。

ここまでくると「映画が大コケして35億円の借金を背負った」と誤解しやすいが、実は『長江』は、興行的にまったく客が入らなかった映画ではない。公開当時としては異例の規模で上映され、配給収入は約5億円に達したとされる。ドキュメンタリー映画として考えれば、むしろかなりのヒット作だった。
つまり『長江』の35億円伝説とは、大失敗した映画の話というより、ヒットしても到底追いつかないほど金をかけて撮ってしまった映画の話なのである。

 

→ 100万フィートの未使用素材はいまどこに?

公開から45年ほど経った今、この無茶な制作体制の意味がまるで違って見えてくる。そこに残っているのは観光名所だけではない。1980年前後の都市、そして名もない町や農村で暮らす人々まで、まだ大きく変貌する前の中国が高品質な映像で記録されている。「そこまでして撮る必要があったのか」が、45年後には「そこまでして撮っておいてくれて良かった」へと、完全にひっくり返るのである。
驚くことに、完成版に使われなかった膨大な素材も失われたわけではない。2007年、CCTVはさだ企画で保管されていた『長江』の素材を引き取り、フィルム766缶、録音テープ1,533本、写真ネガ3万枚以上など、総重量約6トンに及ぶ資料が中国へ渡ったと記録している*9。つまり、張家界や蜀の桟道を含め、私たちがまだ見ていない1980年前後の中国の映像が眠っている可能性がある。