登山の距離感

以前から気になりつつ、それを咀嚼できずにいた思い。

 

「山に登る」事ってどういう事?だ。

 

登山へのロマン、それはとても魅力的だが、同時にとても危険で多くの人が死んでいき、一方でどんどんカジュアル化、一般化が進んでいる。

遭難事故のニュースが飛び交うたびに批判する人の気持ちもわかり、同時にほろ苦い思いでいる山好きな人々の居心地の悪さも想像できた。

 

そして、この相反する2つの感情の橋渡しをするかのようなイメージがある。それが欧米人的というか、アウトドアブランドの広告的な、カジュアルに自然に触れ合おうというイメージ。

 

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本当はもっと厳しく、泥臭く、生きるための装置みたいなもんじゃないのか。前記のようなナイーブな思いこそ打ち砕かれるべき場所なんじゃないの。

 

そんな時に見たのが、2012年のこのニュースであった。

www.j-cast.com

先の2つともまた違う、得体のしれない行為。何やってんだと思いつつ、とにかく不可解だった。いろんな記事を読んでも、その真剣な思いもわかるんだけれども、最後は「どうしても登りたかった」と。やっぱりそこまでする意味がわからん。

 

色んな登山家がまっとうな事を言う。しかし…なんだかモヤモヤする。これって本心なのかな?

「那智の滝」事件について | 野口健公式ウェブサイト

 

でも、ようやく納得できる文章に出会った。

 

honz.jp

 

臆面もなく書かれた、事件への嫉妬。なにより「登山の反社会性」についてはっきりと書かれた文章で膝を打った。

やっぱりそうなんだ。おためごかしをしていても、結局人は"ワル"を求めている。そうすると女性が惹かれる理由もわかる、気がする。この距離感こそが登山の魅力が増している理由なんじゃないか。まるで春画展じゃないか。

"ワル"とは、別に悪行だけじゃない。自分を超えた力を試すこと、非日常、暴力性への接触。。。色んな意味で、人は「正しい行い」だけでは成立しない。