おととい、桜が遂に満開。
家の周囲は大混雑で、特に土曜日は色んな大学の入学式も重なって大変な状況だった。
今朝は、朝イチでここに行ってきた。
この、なんのこっちゃわからんデザインも、逆に主張を際立たせていてこの展覧会の意味付けが如実に見えてくる。秀逸。
既に開館の9:45から並んでいる人々。
前半の手書き類は漫画的な技法を随所に感じたり、それなりに楽しんだがやっぱり白眉は最後の部屋に集められた大御所のものだった。迫力、完成度、どっちも段違い。
有名な、北斎のタコの絵。延々と物語が描かれていて、まさに官能小説&その挿画。
個人的にはベスト2つのひとつめ。これも北斎の、顔がナニになったカップルのお話。これも何枚かの連作状になっていて、つまりは官能小説だわな。
もうひとつのベスト。ピカソも持っていたという鳥居清長の絵は、逆にとても洗練されていて、猥褻要素は「春画」扱いにさせるための記号でしかなくなっている。下の絵が大原女だそうで、そう見える要素が確かに散りばめられている。
歌麿のこの、画面めいっぱい使いきる感覚も、春画的目線で見ると「エロメディア=情報量過多」は当然だよなあと納得。なんというか、男性目線のエロ思考の動線とぴったり一致する。
やっぱりエロの力はすごい、という感想。
"いつの時代も”この界隈にはダイナミズムとか前衛的な力がある。
そして、これはこの展覧会について最初に知った時から感じていた、やっぱりこれで一番面白かったのは観客のリアクションの方だろう、という点。
http://www.youtube.com/watch?v=ZTVJDSB3PSk
女性には楽しんでいる方が多かった印象だが、男性は総じて心が動かされている人が少ないように見受けられた。特に女性の無邪気に楽しんでいる感じが印象的。
この男性たちの反応の鈍さはたぶん、
「結局昔のエロ本じゃねーか」
という感覚を覚えるからじゃないだろうか。わざわざ大げさに取り上げる程の新発見はなかったという部分。
もちろん、今の感覚からかけ離れたところはあるけれど、上述のタコの絵の、あれに通底するSFっぽいファンタジー感覚は今もなお元気に存在してるよね。むしろ、普段自分たちが触れている感覚との共通点を発見する方が多かった。過去に春画を一回も見たこと無い男も少数派だと思うし、あえて美術館という「大規模(でオフィシャル)な装置」で見る必要性も「意味あるの…?」みたいな感覚じゃなかろうか。
その点で男性にとってむしろ新鮮なのは、女性の反応の変わり具合だ。大いに不思議で驚いているだろう。「同じようなものでも、ある一線を越えるとこんなにリアクションが激変するのか!」 それは何なんだろうね。
色々な春画を見た結果、やっぱりあれは猥褻物だと思うし、その捉え方で美術に関わる人々が対応してきたのは当然だと思える。そこに美術としての良さを見出すのは、逆にみうらじゅん的、レアグルーブ的な「再評価」の構造だろと思えて、そういう事を知ってるのか今さら声高に主張する違和感も伴う。
「猥褻な物」を猥褻として"グレーな世界"で取り扱うというのが、個人的には適切だと思うんだけども、むしろそれにこそ違和感を感じる人々も一定層存在するのだろう。"黒か白か"はっきりさせるべきとか、そもそも猥褻では無いと思うとかかな。
外に出ると、入館待ちの列が更に伸びていた。