記憶

先週、アメリカン・スナイパーを見てきた。

f:id:teppay75:20190313204929j:plainf:id:teppay75:20190313205257j:plain


www.youtube.com

 

冷静に、粛々と現実を見せていく。誇れるような、カッコいいものではない姿は、最近のテロ動画なんかに近い雰囲気。1週間経った今では、むしろ「地味」で「卑怯」なスナイパーだからこそ、このテーマに相応しいという事なのかと思う。

誰だって、無傷ではいられない。

「大義」があるから人を殺し、人を殺すために「大義」を作り出す。それぞれの内面にも。

 

偶然だが、こんなものも読んだ。

 

戦争の体験談を語るわ その1:無題のドキュメント

www.2monkeys.jp

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を体験した日本人少年の記憶。多くの内戦の当事者は、すべからく似たような心境なのじゃないかと思う。ソマリア、コンゴ、パレスチナ、アフガニスタン、シリア。

記憶とはなにか。「亡くなった彼らのことは決して忘れない」、それが次の戦争を生みだす、その皮肉。

 

以前もボスニアの本を読んだことがあり、下地として知ってはいた。

ドキュメント 戦争広告代理店~情報操作とボスニア紛争 (講談社文庫)

f:id:teppay75:20190313205342j:plain

ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争 (講談社文庫)

この時は、一方的な「被害者」としての逆転劇という様相も残っていたが、それぞれの立場にはそんな事の意味はない。

これが「バルカン半島の武器庫」の話なら、こんな武器庫は世界各地にあるだろう。

 

自分もその立場なら、こんな知識はリセットされるだろう。生きるか死ぬかの答えなど1つしか無いのだし。そして戦争は決してなくならない。

 

そういえば思い出した。

留学していた時、1995年頃だ、ルームメイトがボスニア人だった。ジョージア州の片田舎に、U17のバスケ代表チームがそのまま避難してきていたのだ。自宅への電話も時々しか繋がらないと言っていた。元気に過ごしている彼らといながら、ニュースのぼんやりとした報道とにわかに繋がらず、傍観していた。一緒にシカゴで休日を過ごしたりもしたな。

彼らはどうしているのだろうか。